中小企業の提訴が、世界を揺らした
始まりは、ニューヨークの中小企業だった。
2025年4月、玩具メーカーのLearning Resourcesと、ワインの輸入・販売を手がけるV.O.S. Selectionsなどが、トランプ政権を提訴した。IEEPA(国際緊急経済権限法)を根拠とした関税は、大統領権限の乱用であり憲法に反する――という訴えで、両事件は審理の過程で併合された。
約10か月後の2026年2月20日、アメリカ連邦最高裁判所が判断を下した。「IEEPAは大統領に関税を発動する権限を与えていない」。トランプ政権側の敗訴だった。
自称「タリフマン(関税男)」を名乗り、関税を外交カードとして自在に振り回してきたトランプ大統領に対し、最高裁がIEEPAを根拠とする関税に歯止めをかけた瞬間だった。
そもそもIEEPAとは何か
判決を理解するには、まずIEEPAという法律の成り立ちを知る必要がある。
IEEPA(International Emergency Economic Powers Act=国際緊急経済権限法)は1977年に成立した法律で、大統領が「国家の緊急事態」を宣言すれば、事前に議会の承認を得ることなく、資産凍結や貿易の制限といった経済措置を発動できるというものだ。
初めて使われたのは1979年。イランでアメリカ大使館が占拠された事件を受け、カーター大統領が米国内にあるイランの資産を凍結した。以来、IEEPAは2025年9月までに計77回発動されてきたが、そのほぼすべてが経済制裁、つまり「特定の国や組織の資産を凍結する」「取引を禁止する」といった措置だった。
これを関税に使ったのは、第2次トランプ政権が初めてだった。
トランプ大統領はIEEPAを根拠に、日本を含む幅広い国や地域に対して「相互関税」を発動した。さらに、薬物の流入を理由に中国・カナダ・メキシコへ追加関税を課し、ブラジルには盟友ボルソナロ前大統領への裁判を理由に、インドにはロシア産原油の輸入を理由に関税率を引き上げた。大統領の一存で、いつでも、どの国にでも関税をかけられる「万能の武器」として使われていた。
最高裁は何を「ダメ」と言ったのか
では、最高裁は具体的に何を問題にしたのか。
判断のロジックは大きく二つある。
第一に、関税は本質的に「課税」だということ。関税は輸入品に上乗せされる税金であり、その負担は最終的に企業や消費者に及ぶ。アメリカ合衆国憲法では、課税の権限は基本的に議会(連邦議会)に属する。こうした重大な権限を、大統領が緊急事態の名のもとに一方的に行使してよいのか、という根本的な問いだ。
第二に、法律の文言の問題。IEEPAには「輸入を規制する(regulate importation)」といった表現はあるが、「関税を課す」とは書かれていない。最高裁は、このような曖昧な文言から無制限の関税権限を読み取るのは「飛躍が大きすぎる」と判断した。しかも、IEEPAが成立してから約50年間、一度も関税に使われたことがないという運用実績も重く見た。
ひとことでまとめれば、「”関税”と書いていない法律で、関税をかけることはできない」。それが最高裁の結論だった。
なお、不法移民の強制送還や政府機関の組織再編など、これまで大統領の政策を支持してきた保守派多数の最高裁が、今回は大統領の権限拡大に歯止めをかけたことも注目された。
約20兆円の関税、返してもらえるのか
判決が出たあと、世間の関心はすぐに次の問題に移った。「すでに払った関税は返ってくるのか?」
その額は巨大だ。アメリカの税関・国境警備局(CBP)によると、IEEPAに基づく関税収入は2025年12月14日時点で1335億ドル(約20兆円)。このうち日本からの輸入品に対する関税だけでも20億ドル余りに上る。関税収入全体は統計の取り方で幅があるが、IEEPAによる関税が「相当部分」を占めてきたことは確かだ。
すでに関税を支払ったアメリカの輸入業者は、日本企業の現地法人を含め、約30万1000社にのぼる。
しかし、還付は一筋縄ではいかない。最高裁は「IEEPAによる関税は認められない」と判断したが、すでに徴収された関税をどう返すかの方法や時期は明示しなかった。還付の実務は、貿易紛争を専門に扱うニューヨークの国際貿易裁判所に委ねられる見通しだ。
トランプ大統領は記者会見でこう述べた。「今後5年は法廷で争うことになるだろう」。払い戻しは本来、正当な権利だが、政権は簡単には応じない構えだ。
企業は判決前から動いていた
こうした事態を見越して、企業はすでに手を打っていた。
アメリカの小売り大手コストコは2025年11月の時点で、国際貿易裁判所にトランプ政権を提訴した。最高裁が違法判断を出した後に備え、支払い済み関税の全額返還を確実にするための訴訟だ。
日本側でも動きがある。豊田通商、住友化学、リコーなどのアメリカ法人が、関税の還付を求めて訴えを起こしている。アメリカの通商法に詳しい法律事務所が「提訴しておくべきだ」と積極的に助言し、訴訟の動きは広がった。
ただし、還付を受けるために費用のかかる訴訟を起こす必要があるかどうかは、専門家の間でも見方が分かれている。「関税を支払ったことを証明できる書類を整えて、具体的な還付手続きの発表を待つ」というのが、多くの企業にとっての現実的な対応となっている。
「関税は外国が払う」は本当か
ここで、関税にまつわる根本的な誤解を解いておきたい。
トランプ大統領はかねてより「関税は外国が払う」と主張してきた。2月24日の一般教書演説でもそう繰り返した。しかし、これは経済学的には正確ではない。
関税とは、外国の輸出企業にかかる税金ではなく、アメリカの輸入業者が通関の際に支払う税金だ。輸入業者はそのコストを商品価格に上乗せするため、最終的に負担するのはアメリカ国内の企業と消費者ということになる。
ニューヨーク連邦準備銀行は2026年2月、関税の約9割をアメリカ国内の企業と消費者が負担したとする調査結果を公表した。政権の説明とは大きく食い違う。
家計への影響も無視できない。シンクタンクのTax Foundationの試算では、2025年は1世帯あたり平均で年間約1000ドル(約15万6000円)、2026年は約1300ドル(約20万円)の負担増になるとされている。
アメリカの平均「実効」関税率は、関税導入前には2.4%程度だったが、最高裁判断の直前には16%まで上昇していたと推計されている(イエール大学Budget Lab)。関税は「外国への圧力」であると同時に、アメリカ国民自身にのしかかる税負担でもある。
“タリフマン”の次の一手
最高裁判決の直後、トランプ大統領は動いた。
敗訴が確定するや否や、今度は「通商法122条」という別の法律を根拠に、日本を含む各国に対して10%の新たな関税を発動した。これは国際収支の問題に対応するための規定で、最大15%・最長150日間の暫定措置とされている。
さらに、USTR(アメリカ通商代表部)は通商法301条に基づき、主要国の不公正な貿易慣行に関する調査を開始すると発表した。
ここで、アメリカの関税制度が1本の法律ではなく複数の法的根拠を使い分ける構造になっていることを整理しておくと、全体像がつかみやすい。
| 法律 | 特徴 | 今回の状況 |
|---|---|---|
| IEEPA | 緊急事態宣言で即座に発動可能。本来は制裁用 | 最高裁が「関税はダメ」と判断 |
| 通商法122条 | 国際収支対応。最大15%・最長150日の暫定措置 | 判決直後に10%関税を発動済み |
| 通商法301条 | 不公正貿易慣行に対する調査・対抗措置 | USTRが調査開始を発表 |
| 通商拡大法232条 | 国家安全保障名目(鉄鋼・アルミ・自動車など) | 対象拡大を検討中と報道 |
IEEPAの最大の強みは、「大統領の一存で、即座に、幅広い品目に一括で関税をかけられる」ことにあった。他の法律にはそれぞれ期間の制約があったり、事前の調査が必要だったりする。つまり、最高裁が奪ったのは単なるひとつの根拠法ではなく、「自在に関税を振り回す機動力」そのものだった。
それでも、筋金入りの”タリフマン”は関税を外交の交渉カードとして使い続ける意向を崩していない。
日本への影響――80兆円の「合意」は揺れるのか
この判決は日本にとっても無縁ではない。
2025年、日本はアメリカに5500億ドル(約80兆円)規模の巨額投資を行う一方で、アメリカが日本への関税を25%から15%に引き下げるという枠組みで合意した。2026年2月には、投資の第1弾として3つのプロジェクトが発表されている。
しかし、この合意はIEEPAを根拠にした関税政策と結びついていた。その根拠が最高裁によって否定された今、合意の前提そのものが揺らいでいる。
USTR(アメリカ通商代表部)で長年交渉官を務め、共和・民主両政権で日本との交渉に関わってきたウェンディ・カトラー氏(米アジア・ソサエティ政策研究所副所長)は、「日本を含む各国政府は、今回の判断を想定していたはずだ」と指摘する。そのうえで、「日米合意の再交渉を望む声もあるかもしれないが、リスクの高い戦略で、最終的には日米関係を損なうことになりかねない」と述べた。
トランプ大統領の反発を招かないためにも、合意を履行するのが現実的だ、というわけだ。各国も当面は再交渉については様子見の姿勢をとっている。
「何か変わるのか」――深まる不透明感
「トランプ関税に最高裁が違法の判断」。この大きなニュースが世界をかけめぐったとき、多くの人が期待したはずだ。これで何か変わるのではないか、と。
しかし現実は、判決の前よりもアメリカの通商政策をめぐる不透明感はむしろ深まっている。
IEEPAという「万能カード」は封じられた。だが、トランプ大統領はすぐに別のカードを切った。還付問題は長期化が確実で、その間に新たな関税が上積みされていく。最高裁の判決は大統領の「関税を使う意思」までは止められなかった。
11月にはアメリカで連邦議会の中間選挙がある。関税による家計負担の増大が有権者の審判にどう影響するかも焦点だ。
日本企業にとっては、「どこでどう稼ぐのか」という問いが、一段と切実になった。法的根拠が揺れるなかで、長期的かつ柔軟な経営戦略の再構築が突きつけられている。
現時点の整理
| 内容 | |
|---|---|
| 確定事項 | 米連邦最高裁が「IEEPAによる関税は権限外」と判断(2月20日)。政権はIEEPA関税の徴収を2月24日に停止。判決直後に通商法122条で10%の暫定関税を発動済み。 |
| 進行中 | 徴収済み関税(約1335億ドル)の還付手続き。日本企業を含む約30万1000社が対象。国際貿易裁判所で審理の見通しだが方法・時期は未定。 |
| 不明 | 還付の具体的な方法・時期・範囲。通商法122条による暫定関税が150日後にどうなるか。301条調査の対象範囲と結論。日米合意の枠組みが維持されるかどうか。中間選挙への影響。 |

