世界の貿易体制が「過去80年で最大の混乱」に直面している。そう警告したのは、国際貿易のルールを扱うWTO=世界貿易機関のンゴジ・オコンジョイウェアラ事務局長だ。
驚きがあるのは、この発言が単なる国際機関の危機感にとどまらない点である。アメリカの関税措置、各国の対抗的な貿易政策、ホルムズ海峡の事実上の封鎖、WTO改革の停滞、そしてデジタル貿易で進む有志国先行のルール作りが、同じ時期に重なっている。
これは遠い外交ニュースではない。エネルギー価格、物流コスト、輸入品の値段、企業の海外取引、さらには日本がどの国々とどのような経済ルールを作っていくのかにもつながる話である。
何が「過去80年で最大」なのか

オコンジョイウェアラ事務局長は、NHKのインタビューで、アメリカのトランプ政権による関税措置をはじめ、各国がさまざまな措置を講じていることに触れ、世界の貿易体制が大きな混乱に直面しているとの認識を示した。
ここでいう「80年」は、第二次世界大戦後に築かれてきた国際経済秩序を指している。戦後の世界は、保護主義やブロック経済が対立を深めた反省から、関税を下げ、貿易を広げ、ルールに基づいて各国が取引する仕組みを作ってきた。その流れを引き継いだのが、1995年に設立されたWTOである。
つまり今回の警告は、単に「関税が上がっている」という話ではない。戦後の世界経済を支えてきた、共通ルールの前提そのものが揺らいでいるという意味を持つ。
なぜ関税だけの問題では済まないのか
関税は、輸入品にかかる税金である。関税が上がれば、輸入する企業のコストが増え、その一部は商品価格に反映されやすい。家電、衣料品、食品、原材料など、影響は消費者の目に見える価格にも及び得る。
ただ、今回の問題は価格上昇だけでは説明しきれない。ある国が関税を引き上げれば、相手国も対抗措置を取る可能性がある。そうなると、企業はどの国から部品を調達するか、どこで生産するか、どの市場に売るかを見直さざるを得ない。
貿易のルールが安定している時代には、企業は長期の投資計画を立てやすい。反対に、関税や規制が政治判断で急に変わると、企業は慎重になる。工場の立地、物流網、価格設定、人員計画まで、幅広い判断に影響が出る。
WTO事務局長の発言が重いのは、個別の関税措置を超えて、こうした予測可能性の低下を問題にしているからだ。
ホルムズ海峡の封鎖は何を変えるのか
もう一つの焦点が、ホルムズ海峡の事実上の封鎖である。オコンジョイウェアラ事務局長は、世界のエネルギー供給の5分の1がホルムズ海峡を通過しており、特に東アジアにとって極めて重要だと警鐘を鳴らした。
ホルムズ海峡は、中東の産油国から原油やLNGを運ぶうえで重要な海上交通路である。ここが滞れば、単に石油タンカーの通行が難しくなるだけではない。原油価格、LNG価格、輸送費、電気・ガス料金、化学品や肥料、包装資材など、さまざまなコストに波及する可能性がある。
日本にとって、この論点は特に身近だ。日本はエネルギー資源の多くを輸入に頼っている。たとえば電気代やガス代が上がれば、家庭の負担だけでなく、工場や店舗のコストにも影響する。企業のコスト増は、時間差を置いて商品価格やサービス料金に表れることもある。
貿易ルールの混乱に、エネルギーの供給不安が重なる。今回の問題が複雑なのは、まさにこの点にある。
WTOはなぜ改革しにくいのか
では、WTOが機能を強めればよいのではないか。そう考えるのは自然だが、実際には簡単ではない。
WTOには日本を含む166の国と地域が加盟している。役割は、国際的な貿易ルールを作ること、加盟国同士の貿易紛争を解決すること、各国の貿易政策を監視することなどである。
問題は、重要な意思決定で全会一致に近い合意形成が求められる点にある。先進国、新興国、資源国、農業国、輸出国、輸入国では、それぞれ利益が異なる。関税、補助金、デジタル取引、環境規制、経済安全保障のような新しい論点では、各国の立場はさらに割れやすい。
ことし3月にカメルーンで開かれたWTO閣僚会議でも、改革に向けた作業計画の策定は採択に至らなかった。オコンジョイウェアラ事務局長は一定の前進があったとの見方を示したが、全体としては、ルールを作る力が十分に回復したとは言い切れない状況にある。
デジタル貿易では何が起きているのか
一方で、全員の合意を待たず、一部の国と地域が先に進む動きもある。その象徴がデジタル貿易ルールだ。
デジタル貿易とは、動画、ゲーム、電子書籍、ソフトウェア、クラウドサービス、データ流通など、デジタル技術を通じて国境を越える取引を指す。かつて貿易といえば、港で貨物を積み下ろしするイメージが強かった。いまは、スマートフォンで海外のサービスを使うことも、国境を越えた取引の一部になっている。
2026年3月のWTO閣僚会議にあわせ、日本を含む66のWTOメンバーは、電子商取引協定の暫定的な取り決めを採択した。WTOの公表資料によれば、この66メンバーは世界貿易の約70%を占める。日本、オーストラリア、シンガポールが共同で進めてきたデジタル貿易ルールである。
この動きは、WTOの限界と可能性の両方を示している。全加盟国で一つのルールを作ることは難しい。だが、有志国が先行して共通ルールを作ることで、部分的にでも秩序を保とうとしている。
日本にはなぜ役割が期待されるのか
オコンジョイウェアラ事務局長は、日本に対して、多国間の貿易体制が支持されるよう他国に働きかけることへの期待を示した。
日本は、自由貿易の恩恵を大きく受けてきた国である。製造業は海外市場と結びつき、エネルギーや資源は輸入に依存し、デジタル分野でも国境を越えた取引ルールの安定が欠かせない。
同時に、依存が特定の国や地域に偏れば、関税や地政学リスクの影響を受けやすくなる可能性がある。多国間のルールを支えながら、有志国との現実的な枠組みにも関わることが、日本にとっての課題になる。
これは外交だけの話ではない。企業にとっては調達先や販売先をどう分散するか、個人にとっては輸入品価格やエネルギー価格の変化をどう受け止めるかという形で、日常にもつながる。
一つのルールだけでは動きにくくなっている
WTO事務局長の警告が示しているのは、世界貿易がただ混乱しているということだけではない。より大きく見れば、世界は「一つの共通ルールで全員が同じ方向に進む時代」から、「有志国や地域ごとに部分的なルールも組み合わせる時代」へ移りつつある。
もちろん、WTOの役割が終わったわけではない。オコンジョイウェアラ事務局長は、今でも貿易の約4分の3がWTOの原則に基づいて行われていると説明している。世界貿易の土台として、WTOはなお大きな意味を持つ。
ただし、その土台は以前ほど自動的には機能しない。関税、エネルギー、地政学、デジタル取引が同時に絡む時代には、ルールがあることだけでなく、誰がそのルールを支え、必要に応じてどう作り直すのかが問われる。
今回の発言は、国際機関の危機感表明ではなく、世界経済の前提が静かに変わっていることを知らせる警告である。貿易の混乱は、遠い港や会議場だけで起きるものではない。価格、供給、企業の判断を通じて、私たちの生活にも波及し得る。
(本稿は各種公開情報をもとに作成した。一部数値は記事掲載時点の情報である)

