中国・蘇州で5月22日、APEC貿易相会合の閣僚級協議が始まった。日本、米国、中国など21の国・地域が自由貿易を話し合う場で、いま目立っているのは「貿易の自由」だけではない。
日本からは赤澤亮正経済産業大臣らが出席した。アジア太平洋地域での貿易や投資、デジタル分野の協力などが議論されるが、今回の焦点は理念としての自由貿易を確認することにとどまらない。中東情勢の悪化によるエネルギー供給への不安、中国によるレアアース関連の輸出管理措置、そしてサプライチェーンのもろさが同時に浮かび上がっている。
なぜ今、APECの貿易会合が重く見えるのか
APECは、アジア太平洋経済協力会議の略称である。日本、米国、中国、韓国、台湾(APECでの呼称はチャイニーズ・タイペイ)、東南アジア諸国、オーストラリア、カナダ、メキシコ、チリなど、太平洋を囲む21の国・地域が参加している。APECでは、政治的な国家承認問題を避けながら経済協力を進めるため、参加主体を「国」ではなく「エコノミー」と呼ぶ。
本来の役割は、アジア太平洋地域でモノ、サービス、投資、人の移動をしやすくすることにある。関税だけでなく、通関手続き、規制、デジタル貿易、中小企業の海外展開など、実務的な課題も扱う。つまりAPECは、経済を動かすための交通整理をする場だといえる。
ただ、いまの国際経済では、交通整理だけでは足りない。貿易は、安いものを買い、高く売るという単純な話ではなくなっている。どの国に資源を頼るのか。重要な部品が止まったときに代わりを用意できるのか。輸出管理や地政学的な緊張が起きても、企業活動や生活への影響を抑えられるのか。こうした問題が、貿易会合の中心に入ってきている。
自由貿易の確認だけでは済まない理由
今回の会合では、ルールに基づく自由で開かれた多角的貿易体制をどう維持するかが主要テーマになる。APEC公式発表でも、開かれたルールベースの貿易環境、多国間貿易体制、地域経済統合、デジタル貿易、強靱で持続可能なサプライチェーンが論点として示されている。
この説明だけを見れば、会合の方向性は分かりやすい。保護主義を避け、貿易や投資を広げ、デジタル分野でも協力する。だが実際には、各国・地域が同じ言葉を使っていても、抱えている警戒感は同じではない。
日本にとって大きいのは、供給網の安定だ。中東情勢が悪化すれば、原油やLNGの輸送に不安が出る。エネルギー価格が上がれば、電気料金、ガソリン価格、物流費、企業の製造コストにも波及する。さらに、レアアースのような重要鉱物の輸出管理が強まれば、EV、ハイブリッド車、風力発電、半導体製造装置、防衛関連装備など、幅広い分野に影響する可能性がある。
ここで問われるのは、「自由貿易は大切だ」という原則そのものではない。危機が起きたときにも止まりにくい供給網をどう作るかである。
レアアースはなぜ日本にとって重要なのか
レアアースは、名前の印象ほど日常から遠いものではない。スマートフォン、自動車、モーター、電池、風力発電、半導体関連設備など、現代の製品やインフラの多くに関わっている。使用量は小さくても、代替が難しい素材が含まれるため、供給が滞ると影響は大きくなりやすい。
中国はレアアースの採掘、精製、加工で大きな存在感を持つ。日本企業が直接すべてを中国から調達していなくても、部品や材料のどこかで中国の供給網につながっている場合がある。サプライチェーンは、見えている取引先だけで完結していない。自動車でいえば、完成車メーカーだけでなく、部品メーカー、素材メーカー、加工会社、物流会社が何層にもつながっている。
そのため、ある国が輸出管理を強めると、すぐに店頭の商品が消えるとは限らないものの、生産計画や調達コストにじわりと影響する可能性がある。企業にとっては「いつ、どれだけ、いくらで調達できるか」が読みづらくなる。家計にとっても、最終的には製品価格やエネルギー価格を通じて関係してくる。
赤澤経産相は会合前の発言として、不当な輸出制限を行わず、自由で法の支配に基づく貿易を実現する必要性に言及したと報じられている。日本側の問題意識は、単なる貿易量の拡大ではなく、重要な物資を安定して確保できる仕組みに向かっている。
中国が議長国であることは何を意味するのか
今回の会合は中国で開かれている。中国は、保護主義に反対し、多国間貿易体制を支える姿勢を前面に出している。米国を中心に対中規制や関税政策が強まるなか、中国としては、自らを自由貿易の擁護者として位置づけたい狙いもあるとみられる。
一方で、日本や米欧側には別の見方もある。中国は世界の製造業供給網で大きな役割を持つだけでなく、重要鉱物、EV、太陽光パネル、半導体関連素材などでも強い影響力を持つ。補助金や輸出管理を通じて市場に影響を与えているのではないかという警戒も、米欧日側にはある。
だからこそ、今回の会合では言葉の一致と実際の行動のずれが焦点になる。「自由貿易を守る」という表現には多くの国・地域が賛成しやすい。しかし、何を不当な輸出制限とみなすのか。国家安全保障を理由にした規制はどこまで認められるのか。重要物資の供給網を分散させる動きは、自由貿易とどう両立するのか。具体論に入るほど、立場の違いは見えやすくなる。
サプライチェーン強化とは、単に在庫を増やすことではない
サプライチェーンとは、原材料の調達から、部品の製造、組み立て、輸送、販売までの一連の流れを指す。よく使われる言葉だが、実際にはかなり身近な問題である。部品が届かなければ自動車は作れず、燃料が高くなれば物流費が上がり、原材料価格が上がれば食品や日用品の価格にも影響する。
サプライチェーンを強化するとは、単に倉庫に在庫を積み上げることではない。調達先を複数にする。重要な部品や素材の代替ルートを持つ。友好国や地域との連携を深める。国内で一定の生産能力を残す。危機が起きたときにどこが詰まるのかを事前に把握する。こうした複数の対応を組み合わせる必要がある。
ただし、供給網の分散にはコストもかかる。最も安い調達先だけを選ぶより、複数のルートを持つほうが高くつく場合がある。企業にとっては利益を圧迫する可能性があり、消費者にとっては価格に反映されることもある。経済安全保障を重視するほど、安さだけを追う時代とは違う判断が求められる。
一般の生活にはどこでつながるのか
APECの貿易相会合というと、日常生活から遠い国際ニュースに見える。だが、エネルギー、重要鉱物、サプライチェーンという言葉に置き換えると、話はかなり近くなる。
たとえば、原油やLNGの供給が不安定になれば、電気料金やガソリン価格に影響する。重要鉱物の調達が不安定になれば、自動車、スマートフォン、家電、再生可能エネルギー関連設備の価格や供給に響く可能性がある。企業の調達コストが上がれば、製品価格や賃上げ余力にも関わってくる。
投資の面でも同じだ。新NISAなどで投資信託を持つ人にとって、世界のサプライチェーンの変化は、企業業績や株価の変動要因になりうる。特定の国や地域に依存した企業は、地政学的な緊張や輸出管理の影響を受けやすい。反対に、調達先を分散し、重要素材を安定的に確保できる企業は、変化の大きい時代に強みを持つ可能性がある。
もちろん、APECの会合だけでこうした問題が一気に解決するわけではない。共同声明や閣僚発言は重要だが、実際に供給網が強くなるかどうかは、各国・地域の政策、企業の投資判断、国際的な連携の積み重ねに左右される。
次に見るべきは「一致した言葉」より「具体的な行動」だ
今回の会合で、各国・地域が自由貿易の重要性を確認できるかは一つの焦点である。しかし、より重要なのは、その言葉がどこまで具体的な行動につながるかだ。
不当な輸出制限を避ける。重要鉱物の供給網を分散する。エネルギー輸送の安定性を高める。デジタル貿易やAI分野で協力する。こうした論点は、それぞれ別々に見えて、実際には同じ問いにつながっている。経済を効率よく回すだけでなく、危機が起きても止まりにくい仕組みをどう作るのかという問いである。
自由貿易は、安さと成長を支えてきた。一方で、安さの裏側にある依存や集中のリスクは見えにくかった。APEC貿易相会合が映し出しているのは、自由貿易をやめるか続けるかという単純な選択ではない。自由で開かれた貿易を守りながら、止まりにくい経済をどう作るか。その難しい両立こそが、いま日本にとっての本当の論点になっている。
(本稿は各種公開情報をもとに作成した。一部数値は記事掲載時点の情報である)

