2026年3月11日夜、高市総理大臣がテレビカメラの前で異例の発表を行った。石油備蓄を放出し、ガソリン価格を1リットル170円程度に抑える緊急措置を講じる──。声明が流れた直後から、全国のガソリンスタンドに車が殺到した。名古屋でも福岡でも、給油待ちの列が道路へあふれ出した。
なぜ政府はこれほど急いで動いたのか。そして「備蓄放出」や「激変緩和措置」という言葉は、私たちの生活にとって何を意味するのか。
ことの発端──中東の火薬庫とホルムズ海峡
今回の騒動の根っこにあるのは、イラン情勢の急激な悪化だ。
ホルムズ海峡という名前を聞いたことがある人は多いだろう。ペルシャ湾の出口にある幅わずか約50キロメートルの細い海峡で、サウジアラビア、UAE、クウェート、イラクなどの産油国が積み出す原油やLNG(液化天然ガス)の大半がここを通って世界へ運ばれる。世界で消費される石油の約2割がこの一点を通過するとも言われ、世界有数のエネルギー輸送の要衝だ。
イランはかねてから「欧米や隣国との対立が高まればホルムズ海峡を封鎖する」と繰り返し警告してきた。今月に入り情勢が急速に緊迫化し、政府はタンカーが日本に到達できなくなるリスクが高まっていると判断した。それが今回の緊急対応につながった。
日本は原油輸入の9割以上を中東に依存しており、その約7割がホルムズ海峡経由で届く。つまりこの海峡が機能しなくなると、日本はすぐに原油不足に直面する可能性がある。ガソリン代の問題だけではない。物流、農業、製造業、電力──現代社会のあらゆる場面に石油は入り込んでいる。
政府の対応──二本柱の緊急パッケージ
こうした状況を受けて、政府が打ち出した対策は大きく二つある。
1. 石油備蓄の放出
まず「石油備蓄の放出」だ。
日本は有事に備えて膨大な石油を蓄えている。国が管理する「国家備蓄」、石油会社が法律に基づき保有する「民間備蓄」、そして産油国と共同で保有する「産油国共同備蓄」の三本立てで、資源エネルギー庁の資料によると2025年12月末時点の合計は254日分に達する。
今回の措置では、まず民間備蓄から15日分を放出し、続いて国家備蓄から1か月分を市場に供給する。合計8000万バレル程度になる見通しで、日本が石油備蓄を放出する措置としては過去最大規模だ。
放出は3月16日にも始まる予定だ。ホルムズ海峡の状況が悪化してタンカーが届かなくなる事態に備えて、先手を打って国内の供給量を確保しておく狙いがある。
2. ガソリン価格の激変緩和措置
もうひとつが「激変緩和措置」だ。少し聞き慣れない言葉だが、仕組みはシンプルだ。
ガソリンの小売価格が1リットル170円を超えた分について、国が石油元売り各社(ENEOSや出光興産などガソリンを精製・販売する大手企業)に補助金を支給する。元売りが受け取った補助金分だけ卸値を下げることで、ガソリンスタンドの店頭価格を抑える仕組みだ。
この措置は3月19日出荷分から適用される。ただし店頭価格に反映されるまでには1〜2週間ほどかかる見込みだという。対象はガソリンだけでなく、軽油・重油・灯油も同額の補助が行われる予定だ。
なぜ今、こんなに急ぐのか
政府の動きが「異例のスピード」と言われる理由がある。
通常、石油備蓄の放出はIEA(国際エネルギー機関)の協調枠組みで行われるが、今回日本はその決定を待たず独自に動いた。それほど時間的な切迫感があったということだ。
石油元売り最大手のENEOSは、3月12日から18日にかけてガソリンの卸値を1リットルあたり26円引き上げることをすでにガソリンスタンド側に通知していた。つまり政府が発表した夜には、翌朝から値上がりが始まることが確定していたのだ。
実際、11日夜から各地のガソリンスタンドには値上がり前に給油しようという人々が殺到した。名古屋市中区では午後9時を過ぎても給油待ちの列が絶えず、福岡市博多区では道路に数十メートルの行列ができた。給油に来た30代の男性は「これ以上価格が上がると家計が厳しい」と話し、40代の男性は妻から「急いで行ってきて」と連絡を受けたと語った。
経済産業省は「過度に心配せず、いつもどおりのペースで給油してほしい」と呼びかけているが、消費者心理のパニックを抑えること自体も、今回の政策が意図した効果のひとつだと言える。
「備蓄放出で解決する」は早合点
ここで注意が必要な点がある。
「8000万バレルを放出する」と聞くと、問題が解決するように聞こえる。しかし実態は違う。備蓄放出は「時間を買う政策」だ。
供給不安が現実になった場合、輸入ができない期間を備蓄でしのぎながら、情勢が落ち着くのを待つ。あるいはその間に代替調達先を探す。それが備蓄の本来の役割だ。備蓄を放出したからといって、ホルムズ海峡の問題が解決するわけではない。
石油連盟の木藤俊一会長も「1日も早くホルムズ海峡の安全航行が確保されることを期待している」と述べており、政府の措置を歓迎しつつも、根本的な課題が中東情勢にあることを認識している。
また、激変緩和措置も、価格そのものを抑え込むというより、急騰を和らげる措置だ。原油がさらに高騰すれば補助額も膨らみ、財政負担は増え続ける。一方で補助金による価格抑制は、市場が本来発するはずのシグナル(「価格が上がったので節約しよう」という動き)を鈍らせるという見方もある。
日本の「中東依存」という構造問題
今回の騒動が改めて浮き彫りにしたのは、日本のエネルギー調達の構造的な脆弱さだ。
原油輸入の9割超が中東依存、そのうち約7割がホルムズ海峡経由──この数字は変わっていない。1970年代のオイルショック以来、日本は備蓄の積み増しや省エネ推進、原子力発電の拡大など様々な手を打ってきた。しかし調達先の多角化という点では、構造的な改善は限定的だ。
一部の報道では、供給源の多角化という文脈で、将来的にロシア産原油の購入再開も検討対象になり得るとの見方も出ている。エネルギー調達はつねに外交・安全保障と切り離せない問題だ。
今回の対応は、家計支援とエネルギー安全保障が同時に問われる局面であることを改めて示した。短期の備蓄放出でしのぎながら、中長期のエネルギー調達構造をどう変えるか。その問いへの答えは、まだ出ていない。
(本稿は各種公開情報をもとに作成しました。一部数値は記事掲載時点の情報です)

