13万スイスフランの「受取」
フィナンシャル・タイムズ(FT)が報じた一本の記事が、欧州中央銀行(ECB)の内部をざわつかせた。
ECB総裁のクリスティーヌ・ラガルド氏が、2025年にBIS(国際決済銀行)の理事として130,457スイスフラン(約14万ユーロ程度)の報酬を受け取っていた——というものだ。
金額の多寡より、制度の整合性が争点だ。問題の核心は、「誰がどのルールの下で、どこから報酬を受け取っているのか」という制度上の整合性にある。
BISとは何か——なぜ中央銀行の総裁が「理事」になるのか
一般の読者のために、まずBISについて説明しておきたい。
BIS(Bank for International Settlements/国際決済銀行)は、「中央銀行の中央銀行」とも呼ばれる国際機関だ。本部はスイスのバーゼル。各国の中央銀行が株主として出資し、金融安定や通貨政策について情報共有・政策対話を行う場として機能している。
その理事会(Board of Directors)には、主要国の中央銀行総裁が加わる仕組みになっている。ECB総裁がBIS理事会に参加するのは、個人の「副業」というより、国際金融システムの運営に関わる「公式な役割」として位置づけられている——少なくとも制度上は、そうなっている。
そして、この「制度上の位置づけ」こそが、今回の論争の核心に関わってくる。
ECBのルールには「二重構造」がある
今回の問題を理解するには、ECBのルールに二つの層があることを押さえておく必要がある。
一方は「職員規則(Staff Rules)0.2.5」。これはECBで働く一般職員に適用されるルールで、「職務の遂行に関連して第三者から支払いを受け取ってはならない。提示された場合は、ECBに支払われるべき」と明記されている。つまり、仕事に関係する外部からの報酬は、個人のポケットに入れることができない。
もう一方は「高官向け行動規範(Code of Conduct for high-level ECB officials)」。こちらはECBの政策理事会(Governing Council)や役員会(Executive Board)のメンバー、すなわちラガルド氏のような「高官」に適用される別の規範だ。この規範では、外部活動を「私的活動」と「公式任務」に分類し、それぞれ異なる扱いをしている。
ここが炎上のポイントだ。
一般職員には「職務に絡む外部報酬は全面禁止」が適用される。しかし高官には、より柔軟な別規範が適用される——この「制度の継ぎ目」が、「一般職員には禁止なのに、総裁は受け取れるのか」という不満を生んでいる。
ラガルド氏の説明:「公式任務なので適用外」
ラガルド氏は欧州議会議員宛ての書簡で、自身の立場をこう説明した。
BIS理事はECB総裁としての「公式の外部任務(official mandate)」に当たる。自分は職員規則ではなく、高官向け行動規範の対象である。そして同規範の「公式任務」に関する条項(7.4)は、独立性を損なうものを「避けること」を求めているが、それ自体を一律に禁止しているわけではない。ゆえに、今回の報酬受領はルールの「適用外」である——というロジックだ。
さらにラガルド氏は、「この報酬はECBが支払うものではないため、ECBの年次会計の注記には含めていない」とも書簡で説明している。一方で、毎年提出する「利益相反申告(Declaration of Interests)」には開示している、とも述べている。
形式論としては、この説明に一定の合理性はある。しかし、組織内の職員から見れば「トップだけが別ルールで守られている」という印象は拭いにくい。
透明性の問題——「開示している」といっても
もうひとつ見逃せないのが、透明性の問題だ。
FTは、BIS自体が理事報酬を個別には開示せず、総額のみ公表していると指摘している。BISの年次報告書には固定報酬の総計や出席手当の仕組みは記されているが、「ラガルド氏がいくら受け取ったか」は通常の読者には見えにくい。
ラガルド氏は「利益相反申告で開示済み」としているが、利益相反申告は公開資料ではあるものの、年次報告書ほど一般に参照される文書ではない——この点がひとつの論点になる。ECBの年次会計の注記にも記載がない以上、「開示の有無」より「どこに開示されているか」が問われている構図でもある。
比較:FRBのパウエル議長は受け取っていない
さらに議論を複雑にしているのが、他国との比較だ。
FTによれば、FRB(米国連邦準備制度理事会)のパウエル議長は同じBIS理事であるにもかかわらず、追加報酬を受け取っていないという。その理由は、米国法(18 U.S.C. §209など)が、連邦政府の職員が職務に対して外国機関から給与・補填を受け取ることを原則として禁じているためとされる。
ここで重要なのは、単純な「パウエル氏が正しい」という話ではない点だ。各国で「外部報酬は個人に帰属するのか、機関に帰属するのか」という制度設計が異なっており、米国が法的に禁じている構造を持つのに対し、欧州側はその設計が違う——という前提がある。しかし読者の視点から見れば、「同じBIS理事なのに、米国側は受け取らず、欧州側は受け取る」という事実は、違和感を生みやすい。
タイミングの悪さ——ECB内部の「落ち着きのなさ」
この問題が浮上した背景には、ECB内部の空気感も関係している。
直近、ラガルド氏の任期(2027年10月まで)を前に早期辞任の憶測が報じられ、ECB幹部が火消しに回るという出来事があった。ブルームバーグは、辞任観測報道を受けてECB内部で「混乱・苛立ち・不安」といった反応があると報じている。
そのタイミングで「報酬と規則の整合性」をめぐる論争が浮上したため、単なるコンプライアンス問題を超えて、組織全体のガバナンス不信として増幅しやすい環境が整ってしまっている。
今後の焦点
今後の論点は3点に集約される。①BIS理事職に付随する報酬をECBに帰属させる運用が可能か、②高官向け行動規範と職員規則の整合性をどう公式に説明するか、③利益相反申告だけでなく、年次会計・年次報告書など「主要文書」での開示のあり方を見直すか——だ。これらへの対応が、今回の騒動の収束に向けた試金石となる。
「ルール上OK」は「納得できる」と同じではない
今回の論争が問いかけているのは、単純に「ルール違反かどうか」ではない。
ラガルド氏の説明は、制度の整合性という観点ではかなり丁寧に論じられている。「公式任務である」「高官向けの別規範に基づく」「利益相反申告で開示済み」——これらはすべて、一定の論理的な根拠を持つ。
しかし、「職務に絡む外部報酬は個人ではなく組織へ」という職員規則の思想を日々守っている一般職員から見れば、同じ組織のトップが別のルールで報酬を受け取る構図は、「合法だが腑に落ちない」という感情を生む。それが今、ECBの内部掲示板に表れている「二重基準」への不満の正体だ。
「ルールは守った。しかし説明責任は十分か」——この問いは、欧州の金融ガバナンスに関わる論点として、今後も尾を引きそうだ。
本稿はフィナンシャル・タイムズの報道およびECB公式文書(行動規範・書簡の内容)をもとに構成しています。報酬金額・規則の解釈については、ECB側の公式説明に基づいています。

