2026年2月17日、スイス・ジュネーブ。静かな湖畔の街で、世界が注目する交渉が行われた。アメリカとイランの高官が核問題をめぐって向き合い、協議を終えたイランのアラグチ外相は「原則について基本的な合意に達することができた」と述べた。一見、大きな前進のように聞こえる。しかし、外交の世界では「原則合意」と「本当の合意」の間には、深くて長い川が流れている。いったい今回の協議で何が決まり、何が決まらなかったのか。そして、交渉の裏で進む軍事的な緊張とは何なのか。順を追って整理してみたい。
【そもそも「間接協議」とは何か】
■直接会えない理由がある
まず今回の交渉の形式について押さえておきたい。米・イランの協議は「間接協議」という形で行われている。これは、双方が同じテーブルに着いて直接交渉するのではなく、第三国や仲介役を介して提案と回答を往復させる形式だ。
なぜ直接会えないのか。その背景には、1980年以来続く米・イランの国交断絶がある。1979年のイラン革命とそれに続くアメリカ大使館人質事件をきっかけに両国は断交し、以来40年以上にわたって公式な外交関係がない。「話し合いたい気持ちはあっても、直接交渉すること自体が国内向けに政治的なリスクになる」という事情が双方にあるのだ。
■仲介役はオマーン
今回の協議ではオマーンが仲介役を担ったと報じられている。オマーンはイランとも欧米とも一定の関係を保つ中東の小国で、過去にも米・イランの橋渡し役を務めた実績がある。間接協議は合意形成に時間がかかりやすい半面、政治的にデリケートな交渉を継続させるための現実的な手段でもある。
【今回の協議で何が決まり、何が決まらなかったのか】
■「原則合意」は出発点にすぎない
協議後、イランのアラグチ外相は「建設的な雰囲気の中で真剣な議論が交わされた」とし、合意文書の草案作成を進めることで双方が一致したと述べた。一方、アメリカ・ホワイトハウスの当局者はNHKの取材に「進展はあったものの、まだ議論すべき点が多く残っている」と慎重なコメントを出した。
ここで重要なのが「原則合意」という言葉の意味だ。これは「おおまかな方向性が揃った」という段階であり、具体的な条件が決まったわけではない。わかりやすく言えば、「家を買う気持ちになった」という段階で、価格交渉も契約書の中身もまだこれからという状態に近い。
■「草案作成」までの道のりも長い
今回の協議で一致したのは「合意文書の草案を作っていきましょう」という方針だ。しかし草案を作ることと、その草案に双方が署名することはまったく別の話である。アメリカ側は「イランが今後2週間以内に、隔たりのある点について詳細な提案を用意してくる」と説明しているが、次回協議の日程すら決まっていない。外相自身も「歩み寄りには時間がかかる」と認めており、早期妥結への期待は禁物だ。
【何が争点なのか——核交渉の”難所”を整理する】
■ウラン濃縮とは何か
核交渉の中心にあるのがウラン濃縮の問題だ。ウランは自然界に存在する金属だが、核燃料や核兵器に使うためには「濃縮」という処理が必要になる。原子力発電に使う低濃縮ウランは濃縮度が数%程度だが、核兵器には90%以上の高濃縮ウランが必要とされる。イランは現在60%まで濃縮を進めており、これは兵器級にはまだ届かないものの、「一歩手前まで来ている」と国際社会が警戒するレベルだ。交渉では「どの水準まで濃縮を認めるか」「これまでに蓄積した高濃縮ウランをどう処分するか」が大きな焦点になる。
■査察と制裁——「先に動いた方が損をする」構造
もう一つの核心的な争点が、IAEA(国際原子力機関)による査察の範囲と、アメリカによる経済制裁の解除だ。IAEAとは核の平和的利用を監視する国連の専門機関で、加盟国の核施設への立ち入り調査などを行う。イランはこれまでIAEAの一部調査を拒否してきた経緯があり、どこまで監視を受け入れるかが交渉の難所になっている。
制裁解除については、「イランが核活動を制限すれば制裁を解除する」という取引が基本的な構図だが、問題は順番だ。イランは「先に制裁を解除してほしい」と求め、アメリカは「先に核活動を制限してほしい」と主張する。どちらも「自分が先に動いたら相手が約束を守らないかもしれない」という不信感を抱えており、この構造が交渉を難航させる最大の要因になっている。
■テーブルに乗らない問題もある
さらに複雑なのは、核問題以外の争点をめぐる温度差だ。アメリカ国内には、イランの弾道ミサイル開発や、中東各地で影響力を持つ武装組織(プロキシ勢力)への支援問題も交渉に含めるべきだという強い圧力がある。一方イランは「核問題だけに絞るべきだ」という立場を崩しておらず、交渉の”枠”そのものが不安定な状態が続いている。
【外交の裏で進む「にらみ合い」——空母とホルムズ海峡】

■話し合いながら圧力もかける
今回の協議と同時進行で、軍事的な緊張も高まっている。アメリカは協議に先立ち、中東地域に2隻目の空母を派遣すると発表した。一方のイランも軍の精鋭部隊である革命防衛隊(IRGC)が、ペルシャ湾の出口にあたるホルムズ海峡で演習を開始。イランの国営テレビは17日、演習に伴い海峡の航行が一時的に制限されたと報じた。ただしこれはイラン側の国営メディアによる報道であり、実態の範囲や規模については慎重に見る必要がある。
外交交渉と軍事的な示威行動が同時に進んでいると聞くと、矛盾しているように感じるかもしれない。しかし実際には、これは外交交渉における典型的なパターンだ。「対話は続けるが、譲歩しなければ軍事的選択肢もある」という圧力を相手にかけ続けることで、より有利な条件を引き出そうとする狙いがある。話し合いと圧力は、外交の世界では矛盾ではなく「セット」なのだ。
■ホルムズ海峡が世界を揺らす理由
ホルムズ海峡はアラビア半島とイランの間に挟まれた幅の狭い海峡で、ペルシャ湾から外洋への唯一の出口にあたる。世界で取引される原油の約2割がこの海峡を通過するとされており、ここが封鎖されると世界のエネルギー供給に直接影響が出る。原油価格の高騰、輸送保険料の上昇、タンカーの迂回コストの増加——その影響は産油国だけでなく、エネルギーを輸入に頼る日本のような国にも及ぶ。つまりイランによるホルムズ海峡での演習や航行制限は、アメリカへの警告であると同時に、「世界経済を揺さぶる力を持っている」というメッセージでもある。
【これからどうなるか——「予断を許さない」情勢の読み方】
■次の焦点は2週間以内のイランの提案
アメリカ側によれば、イランは今後2週間以内に「隔たりを埋めるための詳細な提案」を提示する見通しだという。これが次の注目点になる。提案の内容が具体的で踏み込んだものであれば交渉は加速し、あいまいなものであれば再び膠着する可能性がある。
■楽観も悲観も早計
「原則合意」という言葉だけを切り取ると大きな前進に見えるが、核交渉の歴史は「原則で合意したのに最終的に決裂した」という事例に事欠かない。2015年にオバマ政権下で結ばれた「イラン核合意(JCPOA)」も、トランプ政権が2018年に一方的に離脱したことで崩壊した経緯がある。今回の交渉はその後の再建を目指すものだが、当時よりも双方の不信感は深まっているとも言われる。
協議は動いた。しかし合意への道のりは長く、不確実性は高い。「予断を許さない」という言葉は、今この交渉を見守る上で最も正確な表現かもしれない。今後の動きに引き続き注目したい。

