「国家備蓄の放出が始まった」というニュースを聞いて、「とりあえず安心なのでは」と受け取った人がいれば、少し待ってほしい。備蓄の放出は、問題が解決したサインではなく、むしろ供給網の「時間を買う」ための緊急措置だ。
政府は2026年3月26日、愛媛県今治市の菊間国家石油備蓄基地から国家備蓄の放出を開始した。その規模は国内消費のおよそ1か月分にあたる約850万キロリットル。これに先立って始まった民間備蓄15日分、今月中に予定される産油国共同備蓄5日分を合わせると、過去最大規模の備蓄放出となる。
日本の石油備蓄は「3本柱」で成り立っている
まず、日本の石油備蓄の仕組みを整理しておく。
日本には、目的の異なる3種類の備蓄制度がある。ひとつは「国家備蓄」で、政府が危機時に裁量で動かせる在庫だ。ふたつ目は「民間備蓄」で、元売り会社などが法律によって保有を義務づけられているもの。みっつ目が「産油国共同備蓄」で、サウジアラビアやUAEなどの湾岸産油国の原油を日本国内に置き、緊急時に活用できる仕組みだ。
資源エネルギー庁によると、3月中旬時点での備蓄量は国家備蓄146日分、民間備蓄89日分、産油国共同備蓄6日分で、合計241日分を超えている。
今回異例なのは、この3つを同時に動かしていることだ。通常は民間備蓄が機能し、それでは足りない場合に国家備蓄が動くというイメージが近い。3制度が並行して放出されるのは、今回の危機の深刻さと、政府が早めに供給不安を抑えたい姿勢を示している。
「備蓄を出す」は「ガソリンがすぐ届く」ではない
ここで知っておいてほしい重要な点がある。備蓄基地から放出されるのは、多くの場合ガソリンの完成品ではなく「原油」だ。
今回、政府は石油元売り大手4社に対して国家備蓄を随意契約で売却し、各社が製油所で精製してガソリンや軽油などの燃料として市場に流す流れになっている。つまり「備蓄放出→精製→物流→供給」という工程が必要で、基地のバルブが開いた瞬間にガソリンスタンドに届くわけではない。
EIAの整理では、ホルムズ海峡を完全に代替できるパイプラインは現状存在しない。つまり今回の備蓄放出は「海外から原油が届きにくくなるリスクを、国内在庫で一時的につなぐ」ことで、製油・輸送の時間を稼ぐ行為だと見たほうが実態に近い。
代替ルートはある——ただし「地図の話」では終わらない
ホルムズ海峡が事実上の封鎖状態にある中、日本への原油輸送における代替ルートの探索も進んでいる。
現在検討されているルートは大きく3つだ。ひとつはサウジアラビア西岸のヤンブー港から紅海を経由するルート。ただし、イエメンの反政府勢力フーシ派による攻撃リスクがある。ふたつ目はUAE東岸のフジャイラ港を経由するルートだが、すでに無人機による攻撃が報じられており、安全性に懸念がある。みっつ目がヤンブーを出てスエズ運河を経由し、アフリカの喜望峰を回って日本に向かうルートだ。
この喜望峰回りのルートは軍事リスクを避けやすいが、往復でおよそ100日かかる。これはホルムズ海峡を経由した場合の2倍以上だ。日本船主協会の長澤仁志会長は、場合によってはこのルートの活用も「真剣に検討していく」と述べている。
この問題は単なる地理の話ではない。遠回りになれば、同じ船が一往復するのに必要な日数が倍になる。それは実質的に船の数が半分になるのと同じ効果を持ち、船舶の用船料や海上保険料も跳ね上がる。つまり「代替ルートで原油は届く」としても、同じ1バレルを日本へ運ぶためのコストが大幅に増える経営問題でもある。
「備蓄があるから安心」ではなく「次の手を打つ時間を買っている」
今回の備蓄放出が意味するのは何か。木原官房長官は「直ちに影響が生じるという報告は出ていないが」という前置きをしながら、それでも過去最大規模の放出を決断した。
この「直ちには問題ないが動く」という構図は、先日の石炭火力緊急措置と共通している。問題が起きてから動くのでは遅い——そういう判断が、エネルギー安全保障の世界では求められる。
日本には241日分を超える石油備蓄がある。それは確かに厚いバッファーだ。しかし、代替ルートの物流コストが上昇し、精製・輸送の工程に時間がかかることを考えると、備蓄放出は「問題の終わり」ではなく「次の調達・輸送体制を整えるための時間稼ぎ」と見るのが正確だろう。
政府や企業は、ホルムズ外のルート活用や調達先の多様化も探っている。今回の動きは、単なる石油在庫管理ではなく、日本のエネルギー供給チェーン全体を平時モードから危機対応モードへ切り替えるオペレーションだ。
(本稿は各種公開情報をもとに作成しました。一部数値は記事掲載時点の情報です)

