2026年2月18日、スイス・ジュネーブ。国際機関が立ち並ぶこの都市で、ロシア、ウクライナ、そしてアメリカの外交官たちが2日間にわたって向き合い、席を立った。ロシアによるウクライナへの軍事侵攻が始まってから、およそ4年。停戦への道はいまだ見えず、それでも交渉のテーブルだけは、かろうじて続いている。
【ジュネーブで何が起きたのか】
■「困難だったが、実務的だった」
今回の協議には、ロシアからメジンスキー大統領補佐官、ウクライナからウメロフ国家安全保障・国防会議書記、そしてアメリカからウィトコフ特使らが出席した。1月から2月にかけてUAE(アラブ首長国連邦)の首都アブダビで2回行われた協議に続く、3回目の場となった。
協議終了後、ロシア側のメジンスキー氏は記者団に対し「協議は困難だったが実務的だった」と述べ、次回の協議が近く行われる見通しだと明らかにした。
この言葉は、外交の場ではある種の定型表現でもある。「大きな進展があった」とも「決裂した」とも言わない、絶妙な距離感。裏を返せば、今回の協議で具体的な突破口が開かれたわけではない、ということでもある。
■議題は「領土」と「安全の保証」
では、何が話し合われたのか。主な議題は大きく2つだ。ひとつは領土問題、特にロシアが一方的に併合を宣言し、ウクライナ軍の撤退を求めている東部ドンバス地域の扱い。もうひとつは、停戦後にウクライナの安全をどう守るか、いわゆる「安全の保証」だ。
また、捕虜交換などの人道問題も議題に上った可能性があり、ウクライナ側のウメロフ氏は協議前にSNSでその旨を示唆している。
欧米メディアの報道を総合すると、今回の協議は「突破口なし」という評価が目立つ。ただし「次回がある」という事実は残った。外交の世界では、テーブルを維持すること自体が、ひとつの成果とみなされることもある。
【なぜ話し合いはこんなに難しいのか】
■領土問題は「地図の線引き」ではない
停戦と聞くと、地図の上で線を引き直すだけのように思えるかもしれない。しかし実態はまったく異なる。領土問題は、地図の問題である以前に、政治の正統性の問題だ。
ウクライナがドンバスの支配権をロシアに認めることは、単に土地を失うことではない。それは「侵略を認めた」という事実を国内外に示すことになり、政権そのものの存立を揺るがしかねない。だからこそゼレンスキー大統領は、トランプ大統領から強い圧力をかけられても、簡単に首を縦に振ることができないのだ。
■「安全の保証」がなければ停戦は意味をなさない
もうひとつの壁が「安全の保証」だ。これは、停戦後にロシアが再びウクライナに侵攻しないようにするための仕組みを指す。具体的には、欧米諸国による軍事支援の継続、多国間の監視体制、あるいは何らかの条約的な枠組みなどが想定される。
ウクライナ側にとって、この保証が曖昧なままでの停戦は、単なる「時間稼ぎ」に映る。ロシアが態勢を立て直し、数年後に再び攻め込んでくるかもしれない。その恐怖がある限り、ウクライナは軽々しく停戦に合意できない。
■浮上する「現状凍結」という選択肢
こうした難題を前に、外交の場でしばしば語られるのが「現状凍結」という考え方だ。最終的な国境線を確定させることは極めて難しくても、「今の戦線でいったん戦闘を止める」ことなら、合意の入口になりうるという発想である。
米国メディアのAxiosは、ゼレンスキー大統領が「現状戦線での凍結」に含みを持たせていると報じている。完全な解決ではないが、まず撃ち合いを止める。それが現実的な交渉の第一歩として、静かに浮上してきている。
【圧力をかけられているのは、なぜウクライナなのか】
■トランプ大統領の「早急に交渉を」
ジュネーブ協議を前に、アメリカのトランプ大統領は記者団に対し「ウクライナは早急に交渉のテーブルに着くべきだ」と述べた。今回の協議に限らず、トランプ政権はウクライナ側に譲歩を求める姿勢を繰り返し示している。
その背景にはアメリカの国内事情もある。ウクライナへの支援に費やされてきた膨大な予算への批判、長引く戦争への疲弊感。トランプ大統領にとって、早期に「戦争を終わらせた」という実績を示すことは、政治的にも大きな意味を持つ。
■ゼレンスキーの反撃「公平ではない」
こうした圧力に対し、ゼレンスキー大統領は米国ニュースサイト「Axios」の電話インタビューで率直に反論した。「公平ではない」。圧力の矛先がロシアではなくウクライナに向かっている、という問題提起だ。
さらにゼレンスキー氏はこう述べたという。「トランプ大統領にとって、ロシアよりもウクライナに圧力をかける方が容易かもしれないが、永続的な平和をつくりだす方法は、プーチン大統領に勝利をあたえることではない」。短い言葉の中に、ウクライナの立場のすべてが凝縮されている。
■「国民投票なら否決される」という現実
ゼレンスキー大統領がもうひとつ強調したのは、国内世論の壁だ。ロイターの報道によれば、同氏は追加の領土譲歩について「国民投票になれば否決される」と明言した。
これは単なる交渉戦術ではない。ウクライナでは、領土を守ることへの国民の意志は依然として強い。たとえ大統領が外交的に妥協しようとしても、国内政治がそれを許さない構造がある。外交と国内政治のはざまで、ゼレンスキー氏の選択肢は狭められている。
■プーチンとの直接会談を求める狙い
こうした状況の中でゼレンスキー大統領が繰り返し求めているのが、プーチン大統領との直接首脳会談だ。今回も交渉団に対し、将来的にジュネーブで首脳級の会合を開く可能性を検討するよう指示したという。
仲介者を挟んだ間接的な交渉では限界がある。直接向き合うことでしか開けない扉がある、という判断だろう。ただし、プーチン大統領がその要求に応じるかどうかは、現時点では不透明だ。
【戦争はスポーツにも影を落とす】
■同じ開催地でも「五輪」と「パラ」で扱いが割れた
ジュネーブの交渉と同じ時期、別の場所でも戦争の影が浮かび上がっていた。ミラノ・コルティナの冬季大会をめぐる、スポーツ界の「扱いの差」だ。
五輪側(IOCの枠組み)では、ロシアとベラルーシの選手は国を代表しない「中立(個人資格)」としての参加に限定される方向が続いている。一方でパラリンピック側(IPCの枠組み)では、ロシアとベラルーシの扱いが別の経路で動き、結果として「国の代表として出場できる余地」が生まれた。
重要なのは、これは「同じ日程で同時に起きている矛盾」ではない、という点だ。五輪とパラは別日程で開催される。ただし同じ開催地・同じ大会名の下で、旗や代表性の扱いが異なることが、強い違和感として残る。
■IPCの判断と、その後の「実務の変化」
パラリンピックの統治主体はIPC(国際パラリンピック委員会)であり、参加資格や各国委員会の扱いは基本的にIPCが決める。
IPCは2025年の総会で、ロシアとベラルーシのパラリンピック委員会に対する資格停止を完全に解除する決定を行った。その段階では、各競技の国際連盟や予選の実務が追いつかず、「実際にミラノ・コルティナで資格を得られるのか」は不透明だった。
しかし2026年2月に入り、ロシアがアルペンスキー2人、クロスカントリースキー2人、スノーボード2人の合計6人、ベラルーシがクロスカントリースキー4人、合わせて10枠が示された。「資格停止解除」という政治判断だけでなく、その後の実務運用が変化し、出場の道が具体化してきた、という流れである。
■FISとCASは「別のレイヤー」でねじれを拡大させる
ここで混乱を生むのが、FIS(国際スキー・スノーボード連盟)とCAS(スポーツ仲裁裁判所)の存在だ。
FISは五輪系競技の国際連盟として、予選・資格イベントの参加可否を運用する立場にある。そしてCASの裁定は、その運用に影響を与える。つまりFISとCASは「五輪・パラ全体の代表資格を決める主体」ではないが、競技ごとの参加資格や予選の現場に強い影響を及ぼし得る。
IOC(五輪の統治)、IPC(パラの統治)、FIS(競技連盟の運用)、CAS(仲裁)――。複数の組織がそれぞれの論理で動くことで、「国代表か中立か」という最も象徴的な部分に、ねじれが生まれる。
■「理解しがたい」欧州からの反発
IPCの決定や、その後の出場をめぐる動きに対し、欧州パラリンピック側からは「理解しがたい」とする声明が出ている。ウクライナへの侵攻を続けるロシアの選手が、国の旗を掲げて競技場に立つことへの強い違和感だ。
スポーツは政治から切り離されるべきだ、という理念がある。しかし現実には、誰を「国代表」として認めるかという判断自体が、すでに政治的な意味を帯びている。その矛盾が、いま競技場の中にまで持ち込まれている。
【それでもテーブルは続く】
「停戦」という言葉は、シンプルに聞こえる。しかしその中身は、領土の正統性、安全保証の設計、国内政治の制約、そして大国間の思惑が複雑に絡み合った、途方もなく難しい問いだ。
ジュネーブの協議は終わったが、次回が設定された。外交の世界では、続くこと自体がひとつの希望でもある。ただしその歩みは、あまりにも遅く、あまりにも重い。
そしてその重さは、外交の場だけでなく、スポーツ統治の世界にまで及んでいる。戦争は、日常のあらゆる場所に影を落とし続けている。
(了)

