📊 「想定以上の件数」——しかし、何が起きているのか分からない

ミラノ・コルティナ冬季五輪で、日本オリンピック委員会(JOC)が2月12日までに6万2333件もの誹謗中傷投稿を確認したと発表した。伊東秀仁団長は会見で「毎日想定以上の件数の対応に追われている」と明かし、削除要請1055件のうち実際に削除されたのは198件という厳しい現実を語った。
ところが、この報道を読んだ多くの人が感じたのは**「で、実際に何が書かれているの?」**という素朴な疑問だった。数字は衝撃的だが、具体的な内容、発信元、対象となった競技——肝心の「中身」が一切示されていない。
インターネット上では、AIチャットボットを使って情報を集めようとする人も現れた。しかし、そこで得られたのは「国別の内訳」や「ボットの混入」といった、実は根拠のない推測だった。公式発表されていないデータを、もっともらしく「分析」として提示されても、それは事実ではない。
なぜ、私たちは「6万件」という数字だけで、その実態を理解できないのだろうか。
💬 選手自身が明かした「中身」——報道されなかった生々しい現実
実は、誹謗中傷の具体例は存在する。ただし、それはJOCからの公式発表ではなく、選手自身が公開したものだ。
フリースタイルスキー女子の近藤心音選手は、負傷で棄権した直後、インスタグラムに**「もし選ばれても次は辞退してくださいね」**というコメントが届いたことを自ら公開した。彼女は「それは今この状況にある私に対して言う言葉でしょうか」と反論し、「私の心は折れない」と強い意志を示した。
また、フィギュアスケート男子の三浦佳生選手は、1月に四大陸選手権で優勝した後、主に海外から採点や競技以外に関する中傷のDMが相次ぎ**「通知がうるさかった」**と明かしている。
これらの事例から浮かび上がるのは、単なる「批判」を超えた人格攻撃だ。「辞退しろ」という資格の剥奪、海外からの執拗なメッセージ攻撃——しかし、これらはあくまで氷山の一角に過ぎない。
さらに深刻なのは、選手が自ら声を上げることで、逆に炎上が加速する構造だ。JOCの伊東団長も会見で、選手がSNSで反応することで「輪にかけて(批判が)やってくる」と懸念を示している。つまり、被害を訴えること自体がリスクになるという、極めて理不尽な状況が存在する。
🔍 見えてきた誹謗中傷のパターン
報道や選手の証言から、いくつかのパターンが見えてくる。
1. 結果を人格にすり替える攻撃
「4年も練習してこの結果?」「努力が足りない」——競技の技術や戦術ではなく、選手の人間性や努力を否定する言葉。
2. 「税金」を盾にした正当化
「税金使ってるんだから批判されて当然」——公的支援を受けていることを理由に、どんな攻撃も許されると考える層。
3. 代表資格の剥奪要求
「次は辞退しろ」「枠を無駄にした」——選手としての存在そのものを否定する言葉。
4. メンタル破壊を目的とした攻撃
「心折れたほうがいい」——競技とは無関係に、心理的ダメージを与えることが目的化した悪意。
これらは、スポーツへの批評や応援とは全く異なる、明確な人格攻撃だ。
🔒 報道が「中身を明かさない」理由——保護と透明性のジレンマ
なぜJOCは6万件の内訳を公表しないのか。そこには正当な理由がある。
- 二次被害の防止——誹謗中傷の具体的内容を報道すれば、それ自体が被害者への攻撃を再生産する
- 模倣犯の誘発——詳細を知れば、同様の中傷を行う者が現れる
- 選手のプライバシー保護——被害内容を公にすることは、選手の名誉をさらに傷つける
- 法的リスク——内容を報道すること自体が新たな名誉毀損になる可能性
これらは、アスリートを守るための配慮として理解できる。しかし、その結果として生まれるのが**「情報の空白」**だ。
今回の件数は、パリ五輪で確認された8500件超と比べて約7倍のペースという比較データはある。しかし、なぜこれほど増えたのか、国内と海外の比率、競技別の傾向、誹謗中傷の類型——こうした基本的な情報すら明かされていない。
📈 公表されている情報(限定的)
- 確認件数:6万2333件
- 削除要請:1055件
- 実際の削除:198件(削除率約0.3%)
- 監視体制:日本とイタリアの2拠点で24時間
- 連携先:LINEヤフー、Meta等のプラットフォーム事業者
❓ 公表されていない情報(重要)
- 国別・言語別の内訳
- プラットフォーム別の件数(X、Instagram、Yahoo!コメント等)
- 競技別の傾向
- 誹謗中傷の類型別割合(侮辱、脅迫、差別、デマなど)
- 国内発信と海外発信の比率
情報の空白は、憶測と陰謀論を生む。
実際、AIチャットボットに質問した人々は、根拠のないまま「英語・中国語・韓国語が多い」「特定国が組織的に攻撃している」「ボットが数を膨らませた」といった「分析」を受け取った。これらは公式発表されていないデータに基づく推測であり、事実ではない。
しかし、公式情報が不足している状況では、人々はこうした「それっぽい説明」に飛びつきやすくなる。結果として、新たな偏見や対立を生む危険性がある。
💡 透明性と保護は両立できる——必要なのは「統計」という知恵
選手を守りながら、社会に問題を理解させることは可能だ。
プライバシーを侵害しない範囲での類型別の統計——「人格攻撃」「資格剥奪要求」「性差別」「脅迫」といったカテゴリー分け、プラットフォーム別の傾向、発信元の大まかな地域分類——これらは個人を特定せずに公開できる。
実際、海外では先行事例がある。世界陸連はパリ五輪で人種差別が18%、性差別が30%を占めたと具体的なデータを公表している。こうした統計は、選手のプライバシーを守りながら、問題の構造を社会に理解させる有効な手段だ。
📊 本当に必要な情報開示とは
類型別の割合
- 人格攻撃:◯%
- 資格剥奪要求:◯%
- 性差別・容姿攻撃:◯%
- 脅迫・危害予告:◯%
- その他:◯%
プラットフォーム別の傾向
- X(旧Twitter):短文での強い断定、拡散されやすい
- Instagram:選手本人への直接攻撃、心理的ダメージが大きい
- Yahoo!ニュースコメント:「税金」「代表資格」など説教型が多い
発信元の大まかな傾向
- 国内(日本語):◯%
- 海外(多言語):◯%
- ボット・自動投稿の疑い:◯%
競技別の傾向
- どの競技で中傷が集中したか(注目度との相関)
- 個人競技と団体競技での違い
こうした統計があれば、私たちは問題の本質を理解でき、より効果的な対策を考えることができる。
削除率0.3%という現実
削除要請1055件のうち、実際に削除されたのは198件で、**削除率は約0.3%**という数字は、対策の難しさを物語っている。
なぜこれほど削除率が低いのか。プラットフォーム側の基準が厳しいのか、法的要件を満たす証拠収集が困難なのか、それとも投稿の大半が「ギリギリ許される範囲」に収まっているのか——こうした分析も、透明性があれば可能になる。
JOCは24時間体制でAI監視を行い、LINEヤフーやMetaと連携している。しかし、その努力が本当に効果的なのかを判断するには、もう少し詳しい情報が必要だ。
🎯 私たちに必要な視点
今回の報道が私たちに突きつけたのは、「アスリートを守る」という正義と「社会に実態を伝える」という責任のバランスをどう取るか、という難しい問いだ。
数字だけの報道は、問題を可視化しない。しかし、すべてを明かすことは二次被害を生む。
その間に、選手たちは今日も目に見えない暴力にさらされている。私たちに必要なのは、感情的な怒りでも無関心でもなく、この問題の構造を理解し、本当に効果的な対策を求めていく冷静な視線だ。
「6万件」という数字の向こう側に、傷つき、それでも立ち上がろうとする選手たちの姿がある。その現実を、私たちはまだ十分に見えていない。
📚 参考情報
- JOC(日本オリンピック委員会)ミラノ・コルティナ五輪中間総括会見(2026年2月13日)
- フリースタイルスキー近藤心音選手Instagram投稿
- フィギュアスケート三浦佳生選手メディアインタビュー
- 世界陸連(World Athletics)オンライン虐待対策レポート
**【注】**本記事は公開情報に基づいて執筆されています。国別・言語別・競技別の詳細な内訳については、JOCからの公式発表がないため、確認された範囲での記述にとどめています。

